竹富島北端の美崎《ミシャシ》から西桟橋に向かう途中、安里クヤマ《あさとクヤマ》の墓をお参りしました。
1722年-1799年。竹富島生まれ。絶世の美女として島内外で知られ、沖縄を代表する民謡『安里屋ユンタ』のモデルとなった。
お墓と海岸があるだけのスポットですが、竹富島の歴史に少し触れた気持ちになりました。

安里クヤマと安里屋ユンタ

~案内板の内容~
安里クヤマの墓
Asato Kuyama’s Haka(Grave)
安里屋のクヤマは、18世紀前半に竹富島の安里家に生まれたと伝えられています。クヤマは絶世の美女と言われ、目差主(役人)の賄女に望まれますが、きっぱりと断ったと言われています。このクヤマを唄ったのが、労働歌として歌われ始め、沖縄の代表的な民謡となり現在でも歌い継がれている、「安里屋ユンタ」です。
クヤマが16歳の頃、琉球王国の支配下にあった竹富島に首里の王府*から『目差主《みざししゅ》』が派遣されてきました。当時の役人は家族同伴での渡島が許されていなかったため、単身で竹富島に渡っていたそうです。任期中は生活全般の世話を村で選ばれた女性が行う慣習があり、その女性は『賄い方*』と呼ばれていました。賄い方になると年貢を免除されたり、生活の補助を受けられたりといった見返りもあったそうです。
*王府…首里城を拠点とする琉球王国の行政機関
*賄い方…現地妻
当の目差主は島で評判のクヤマに賄い方になるよう言い寄ります。ところが、役人が絶対だった時代にも関わらず、クヤマはきっぱりと拒絶してしまいました。実は、目差主の上役である『与人《ゆんちゅ》』もクヤマを欲しがっていることを知っていたからです。与人の地位は村長クラス、目差主はその補佐クラス。かくして、クヤマはより権力をもつ与人の賄い方になったのでした。
そんな出来事を語り継いだのが「安里屋ユンタ」です。クヤマと目差主のやり取りは1~3番におさめられています。

やがて3年の任期を終えた与人は、島を去る際に世話になったクヤマに一等地の畑を与えました。与えられた畑は今も子孫が守っています。

フラれた目差主のその後も気になる
実は安里屋ユンタは23番まであって、4番~19番にその後の目差主が語られています。つまり、本当の主役は目差主。
目差主は「クヤマより絶対幸せになってやる!」的なことを言って奮起。クヤマに負けない女性を島中探し回ります。そして、イシケマという容姿端麗で器量もいい女性と出会い、無事に賄い方を迎え入れることができました。そして最後の20番~23番では、大人の男女の仲睦まじい様子を歌っています。
というわけで、安里屋ユンタはクヤマよりも目差主のことを面白おかしく歌う内容で、権力に対するストレス発散でもあったようです。
上記の安里屋ユンタは発祥地竹富島に伝わるもので、ほかに一部内容が異なる石垣島バージョン、まったく内容が異なる新・安里屋ユンタもあります。
安里クヤマの墓へ行く
美崎から南下すると、右側に『安里屋クヤマの墓』を案内する道標があります。


右の小道に入り少し進むと、「安里クヤマの墓 入口」と書かれた杭が立っています。杭の手前にある小道を右に曲がると安里クヤマの墓です。




沖縄らしい広くて大きいお墓。向いている方角的にも最初はオーシャンビューだったと思います。現在はツリービュー。手入れが追いつかないのか木が生い茂って森のようになっていました。


お参りをして小道に戻ります。
安里クヤマの墓の先にある海岸


クヤマの墓の入口に戻ると、真っすぐ進む道もありました。


右に行くと安里クヤマの墓
この道の先には海が広がっています。




視界がパッと開けて、なかなかいい景色が広がっています。ちょっと先には小浜島や西表島も見えます。でも、観光客は1人もいません。地元の人もいない。みんな西桟橋やコンドイ浜に行くからでしょう。


海水浴やシュノーケルもできそうにない。海の景色は綺麗だけど、岩が多くて写真映えしない。観光客は素直に西桟橋へ。海に向かって大声で叫びたいときはこちらに来てください。
以上、安里屋クヤマの墓とその先にある海岸でした。
施設情報
安里クヤマの墓 | |
---|---|
営業時間 | 24時間 |
定休日 | なし |
住所 | 沖縄県八重山郡竹富町竹富 Google Map ![]() ![]() |
入場料 | 無料 |
滞在時間 | 5分 |
公式HP | なし |
備考 | トイレ ✕│売店 ✕ |
アクセス
竹富東港:徒歩25分、自転車9分
西桟橋:徒歩8分、自転車3分
コンドイ浜:徒歩20分、自転車7分
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西表・由布・竹富3島めぐり
参考
Article author いそぽん
Photo & Experience 2024.11
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